4. ティラナ~カクテルと亡命の話~
Blloku(ブロック)という、おしゃれで新しく発展した地区がある。メインの観光地からは川を越えた反対側に位置していて、私が滞在している場所からは歩いて20分ほど。夜は冷たい風が気持ちよくて、歩くにはちょうどいい距離だった。
向かったのは、Spy Speakeasyというバー。Speakeasy(スピークイージー)形式なので、外には看板がない。ドアには鍵がかかっていたので、チャイムを押してみる。スライド式の小さな覗き穴から男性の目が現れ、”誰?”と聞かれた。一瞬、間違えたのかと思ったが、”スパイ・スピークイージーに来たんだけど”と伝えると、無言のまま、覗き穴を乱暴に締め、重い鍵が外され、ドアが開いた。
中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。1920年代の『グレート・ギャツビー』に出てきそうな、レザー、ベルベットとウッドを基調にした重厚なインテリア。華やかなフラッパーたちが笑顔でカクテルを楽しんでいる様子が、容易に想像できる。
開店時間の20時ぴったりに到着したので、まだ客は私一人。予約で満席になるそうだ。最初、男性バーテンダーは少し無愛想に見えたが、おすすめのカクテルをお願いすると、柔らかい笑顔で迎えてくれた。彼はオーナーでもあるらしい。ジンベースのさっぱりしたカクテルは、久しぶりに”これは本当に美味しい”と思える一杯だった。
そのとき、店の奥のベルベットのカーテンがふわりと揺れて、まるで神話から現れたような、美しく官能的な女性が現れた。光と闇が調和したような存在。オフショルダーのベルベットのタイトなドレスはダークレッドで、同じ色のボブヘアが彼女の存在感をさらに引き立てていた。私は息をのんで見惚れてしまった。
彼女は私に話しかけてくれて、私が日本から来たと伝えると、とても喜んでくれた。二人に出身地を尋ねると、どちらもティラナ出身とのこと。私が”いいな、優しい人たちに囲まれて、素敵なところで育ったんだね”と軽い気持ちで言ったとたん、二人の表情が少しだけ変わった。
”そうは思わないよ。多くの人がアルバニアを出たいと思ってる。”
その言葉に、自分の無知さと軽率さを恥じた。すると彼女が、静かに語り始めた。独裁国家が崩壊してからの、自身と家族の経験を。
”1992年に独裁政権が崩壊するまでは、どんなに空腹でも、どんなに労働が過酷でも、私たちは“アルバニアは素晴らしい国だ”と教えられ、そう信じるしかなかった。でも崩壊後は大混乱。多くの人が亡命を試み、イタリア行きのフェリーは人で溢れ、次々に命が失われていった。ギリシャを目指した人たちも、山を越えようとして命を落とした。親戚が突然姿を消えたりした、たぶん亡命しようとして命を落としたのだと思う。”
”母は初めて海外、オランダに行った時、帰ってきてから1週間寝込んだわ。あまりのカルチャーショックで。“ずっと信じていたものが、実は世界で一番ひどい環境だった”って気づいたときの衝撃、想像できる?”
”1997年には、国家全体がネズミ講に巻き込まれて、国民のほとんどが全財産を失った。だから今も私たちは現金主義。銀行を信じていないの。キャッシュレスが普及すれば観光も発展するのにね。”
彼女はタバコの煙を細くゆっくり吐き、ドアのチャイムが鳴った。来客の案内を終えると、またそっと私の隣に戻ってきてくれた。
”ご両親は、こういう話をオープンにするの?”と聞くと、彼女は笑ってこう答えた。
”ええ、とてもオープンよ。多くの人に知ってほしいの。そして、若い子たちに同じ過ちを繰り返してほしくないから。”
再び微笑みながら、彼女は接客へと戻っていった。
バーテンダーが「2杯目はどう?」と聞いてくれて、また違うカクテルをお願いした。すると彼は自分の話もしてくれた。
”僕も昔、アルバニアから出たくて、スイスとドイツで十数年働いてた。大変だったけど、楽しかった。でもやっぱりアルバニア人としてのプライドがあるから、最終的には帰ってきたんだ。ヨーロッパでは僕たちはけっこう差別される。だからこそ、自分らしく、自分のやり方でこの国を少しでも良くしたいと思ってね。”
その頃にはお店はすっかり満席に。私はひとりでカクテルを飲みながら、彼らの言葉をゆっくりと、心の中で咀嚼していた。
衝撃だった。私と同じ世代とは思えないほど、彼らの経験や視野は深く、広かった。まるでずっと年上のような余裕と厚みがあった。それでも、こうして今、笑顔で話してくれた彼らに感謝した。
自分がちっぽけに思えた。仕事でイライラしていたことや、小さな不安が、一気に遠ざかっていった。
冷たい夜風が心地よくて、ライトアップされた幻想的なモスクを横目に歩きながら、知らなかった世界にまた一歩触れたワクワク感で、ついミニスキップしながら帰った。
ティラナ写真:https://www.tabitabitabishitemasu.com/photos-1/tirana